今夜の約束は何ひとつ見つからない。無我夢中で走るように生きて来た。
私の暮らす麻布十番のマンション、滑らかな楕円形の窓から覗く薄暗い夜は、学生時代に訪れた上海のホテルで観た、長い廊下の頼りない灯りを想わせる。
あの旅は愛した男との別れの後のこと。心に余裕のカケラなど微塵もないのに、不思議と別離の悲しみとは別のことを気にしている。優柔不断な女のままでいられたら、モノクローム・フィルムの向こう側で安いスプマンテを飲み干し、粘り着く孤独を1年で忘れ去ることが出来たのに。
私の聖書は「月曜日のユカ」同じ名前でこの世に生きている事実を、心の底から親に感謝している。レイト・ショーのスクリーンに広がる加賀まり子のコケティッシュな魅力と魔力。ワガママな瞬間の生き写しのように、冷たいコンクリートの上をゆっくりとハイヒールで歩めたらいい。マノロ・ブラニクでもジミー・チュウでも、踵から緩やかに滑らせるように。
喧噪に飽きた夜は、楕円形の窓の前に置かれたハイ・テーブルの上に、お気に入りの靴を3つ並べてモエ・ロゼのボトルを優雅に抜く。所謂、靴観酒(くつみざけ)。
私が働くネイル・サロンのマネージャー、ミキが教えてくれた他愛ない遊び。彼女は美しい36歳のシングル・マザー。私達はカイリーでもマドンナでもない。この街で暮らす「東京」という顔をした女、私は単なる錆び付いた28歳の白い肉体、純潔な発想、夢の一部。
時には雑誌で紹介されることもある。女優やタレントのCMや広告、誰もが憧れる女性達の指先に最先端のビューティを飾り付けている。
私が業界に入った数年前、世の中はカリスマ美容師がブームで、男性のオーナー達はネイルには見向きもしなかった。そんな状況の中、私は全身全霊を仕事だけに捧げ生きてきた。結婚をしてサロンを辞めてゆく仲間を見送りながら、心の片隅で愚かだと笑う日々。小さかったサロンも今では立派に繁盛して、独立して新たな成功を掴みとる先輩もいる。その横顔に私はいつも憧れていた。仕事に生きる女は綺麗、そして限りなく未来的。先見の目がない男達になど絶対に負けたくはない。
数週間に渡り海外でのロケが行われるCMの撮影。女性誌で絶大な人気を誇るヘアメイク・アーティストのご指名で、商品であるリップ・グロスのイメージに合わせネイルを担当する。照明とのバランスを見比べながら丹念に女優の指先に光を加えてゆく。サロンは留守の間、若いスタッフ達とミキに任せて、長期の撮影に望んだ。私にとってネイリストとしての威信をかけた大勝負。グラビア・アイドルからR&Bシンガーまで、サロンに訪れる顧客に事情を説明して、撮影の為に3週間ほど日本を離れることを許して頂いた。
深夜3時まで残務をこなす。翌朝の8時には成田に到着していなければいけない。疲れているのに私は、青山のサロンから六本木までを歩く。246を抜け、外苑東通りは月曜日の早朝、とても静かだ。真っすぐタクシーでマンションに帰ればいいのに、解明できない意味不明の行動。こんなに街をゆっくりと歩くのは久しぶり、夢を描いたこの街で、夢に流され暮らしている。
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